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GW・渋谷・梅田・映画クレヨンしんちゃん
  Date: 2000-05-01 (Mon)

金曜〜土曜日
現代美術の世界で暴れる村上隆氏がキュレーションを行う「SUPER FLAT」展が4/28から渋谷パルコではじまったので、そのオープニングパーティをみがてら、打ち合わせに専務やボーメと出張。村上氏とうちの会社は長くつきあいがあり、また今回の作品展にボーメの作品をとりあげているため。
いつもながら、アートの世界のこの手のオープニングパーティは独特の雰囲気で身のおきどころがなくて困ってしまい、仕事のつきあいがある編集者やデザイナーと隅のほうでオタク話をぼそぼそと。

打ち合わせがてらタイ料理屋に。グリーンカレーはやっぱりうまい!
シンハビールで酔っぱらいつつも、打ち合わせの内容をメモ。翌朝きれいさっぱり忘れちゃいそうだから。めちゃ辛い料理があって、余計にビールがすすんでしまう。

渋谷のホテルで新兵器「FIVA」を取り出す。そう、先日買ったモバイルパソコンである。リブレットとかとさほどサイズかわらないのに、画面はでかい。しかも、マシンの価格は安い。結構気に入った。今度は液晶割らないようにしなければ。インターネットに接続。よく考えると、月に数日出張にいってインターネットのぞくためだけにモバイルパソコン買うのは馬鹿馬鹿しいことだ。わかっちゃいるけどやっちまうのが、通信中毒者のダメさ加減。

ひさしぶりに渋谷の繁華街を歩いてると、うちの店があった数年前とはどえらく様子がかわっていてびっくり。どんどん店が入れ代わってるかんじ。ブックファーストで資料を買う。
新幹線の時間が決まってるので、いそいで「勝一」でとんかつを食う。渋谷にくると、ついここにいってしまう。さっくりした衣が忘れられない。昼間からビール。くー。

GWだが新幹線は思ったほどぎゅうぎゅうというわけではなさそう。
寝てるとあっという間に大阪につく。ホテルのベッドより、新幹線のほうがよく眠れるよねぇ。

さて、日曜日。
薄曇りだが、気持ちいい気候。喫茶店で食事した後、ぶらぶら扇町公園へ。先日夜桜のとき飲んだシュワルツカッツのミニ青瓶がうまかったので、芝生に寝転んでチーズをかじりつつ飲む。iモードで映画館情報をチェックすると「トイストーリー2」の日本語吹き替え版に間に合いそうだったので梅田までてくてく歩く。ところが「ただいま立ち見」の文字。きーっ。

頭にきて、中之島にできたジュンク堂書店をさがしにいく。西日本最大の書店が出来たってことで、一度いってみたかったのだが、中之島方面なんて滅多にいかないもんね。
奇麗で巨大なオフィスビルにジュンク堂はあった。確かにでかい。本棚がドミノ倒しのようにずらーーーーーっと並んでいて壮観。書架の迷宮。
何も買わずに出る。

梅田に戻ってナビオの「クレヨンしんちゃん・嵐をよぶジャングル」をのぞく。を。いっぱいかと思ったら座れそう。
僕はオタクだが、アニメオタクではないので、映画館でアニメを観ることなどほとんどない。だがクレヨンしんちゃんは別である。毎年GWに上映されるクレヨンしんちゃんの映画は、傑作が多い。「アニメとして」面白いのではなく、映画として面白い。しょーもないホラー映画なんか観てないで、クレヨンしんちゃんを正当に映画として評価してほしいものだ。
とはいっても、家族連れでいっぱいの映画館にいい年した男がひとりで入るのは、やっぱり恥ずかしい。まわりの僕ぐらいの男性は皆子供を連れている。子供を席に座らせてるお父さんに見えることを念じつつパンフレットを買ったりして。
今回は監督が原惠一になって4作めのクレヨンしんちゃんである。本郷みつるから原になってどうなるかと思っていたが、3年前の「暗黒タマタマ大追跡」は日本の田舎ロードムービーなんてやって、最高だった。一昨年の「電撃!ブタのヒズメ大作戦」はインディジョーンズ風世界をめぐる大活劇でまたまたクリーンヒット。ただ、昨年の「温泉わくわく大決戦」は怪獣映画のパロディだったが、なんだかオタクうけに走りすぎて少しトーンダウン。
今年は、いきなり海外の話(豪華客船〜無人島のジャングル)になってしまい、日常のびんぼーくささと、大活劇がいっしょくたになってしまうというお約束のシチュエーションが薄まり、どうなるかと思ったのだけれど、単純明快な話をパワーでおしまくって、なかなかのスマッシュヒット。昨年、マニアックになりすぎたのを反省したのかも。

帰ってきて四川ラーメンでまたまた焼豚まんまを食う。ああうまい。
こうして、GWのオープニングは終わった。

三冊の新刊
  Date: 2000-04-17 (Mon)

昨日までいつものファミ通出張だった。
どういうわけか、東京の書店にいくと、講談社ノベルスの新刊に出会う。
いや講談社ノベルスに限らず、東京で傑作や心に残る作品を買う率は異様に高く、ホテルで徹夜して読んじゃうことなんてのも多いのだ。
綾辻行人「十角館の殺人」、京極夏彦「うぶめの夏」などのエポックもそうだったし、最近だけでも法月倫太郎「法月倫太郎の新冒険」東野圭吾「私が彼を殺した」、鯨統一郎「邪馬台国はどこですか」など、みんな東京で読んだ。最近ここにも書いた「メインディッシュ」や「象と耳鳴り」も東京で買ったものだ。
「だからなんだ、東京と名作になんか因果関係があるのか」と言われると、いや別に・・・って言うしかないんだけどね(^_^;)

今回も東京で新刊ノベルス三冊を入手。
東京で読んだのは新人の「UNKNOWN」。自衛隊内部の徹底的に監視された「密室」に仕掛けられた盗聴器・・・という魅力的な謎が描かれる。が、謎の解明自体は、なんだかあっけないし、複雑な盗聴器を僅かな時間で仕掛けるトリックは僕でも途中で気付いてしまう。それでも「自衛隊」という矛盾あふれる組織の問題を、変に気負わずスマートに描いてとても感じがいい。右鷹知事の迷惑発言なんかより、こういう思想の押しつけに走らないエンタテインメント作品が出るほうが、自衛隊員にとってもずっと「士気」も高まるし、有り難いんじゃないかなぁ。

『ハサミ男』の作者の第二作めは『美濃牛』。横溝ばりの地方本格ミステリをやるらしい。びっくり。まだ、殺人が起きたところまでしか読んでないのでなんともいえないんだけど、横溝的田舎の藁葺屋根の旧家の血筋がらみでおこる怨念みたいなものを求めるのは、現代日本では無理がある・・・ということを自覚し、ドライに現状を描きつつも、パロディに逃げずに魅力ある世界を構築しようとしている気がして期待大。殺人がおきるまでの人物・状況紹介に140ページ費やしているが、退屈させないところが、作者が卓越した書き手だと賞賛された証か。
『美濃牛』なんて人を食ったような題名だが、どうやらこれは『ミノタウロス』のもじりでもあるらしい・・・やっぱりパロディ?(^_^;)

『邪馬台国は何処ですか?』でバカ歴史ミステリという新ジャンル(?)を築いた鯨統一郎の新作は一休さんが密室殺人を説くという長編らしい。これは『美濃牛』の後で読むべく待機中。

ラーメン屋に通うわけ
  Date: 2000-04-12 (Wed)

最近近所にオープンしたラーメン屋がある。
おそらく仕掛け人がいて、デザインや宣伝も戦略的にやっているコンセプトショップらしく、タウン雑誌に紹介され、結構人も入ってる。唐辛子を店のイメージにした、ピリカラの四川風坦々麺が売りの店だ。
この店にここ数日、通っている。
僕はよくいるラーメングルメじゃないし、むしろ外でラーメンは食べないたちだ。中華料理屋に入ってもラーメンを頼むことはまずない。なのになぜ通っているのか。
まあ、確かにラーメンはそれなりにうまい。だが、目的は別にある。
かわいいおねえさんが店員やってるからじゃないよ。
こーゆー店ではラーメン以外にもサイドディッシュがあるのが常。
炒飯はまぁまぁ。餃子とからあげは×。しかし。気まぐれに頼んだ「叉焼まんま」、これに病みつきになってしまったのだ。

炒飯についてくるスープが入ってるぐらいの小さなお椀。白ごはんの上に、搾菜のきざんだのと、ラーメンに入ってる角煮、刻みネギが溢れんばかりに入っている、まあ小さい丼だ。はっきりいって、メニューの中でも、そんなに目立たないし、材料も、他のメイン料理のものをよせあつめただけの、おまけメニューっぽい。
だが。小さな椀からこぼれそうなそれをがっと口に放り込んで噛み締めると、陶然としてしまう。
ラーメンに入っているときは、単なる具だった豚の角煮なのに、白いご飯と搾菜とねぎと渾然一体となったとき、なぜこれほどの味になるのだろう!白い飯に角煮のたれが混ざり、搾菜の味が重なって、風味も味の複雑さも違う次元になってしまう。感動(T_T)
がつがつと食う。ときどきラーメンを箸休めにしながら、食う。もはや、ラーメンはおまけである。
小さな椀なのが悲しい。でかい丼にしてほしいと本気で願ってしまうが、まあ、この量なのがまた絶妙なのかもしれん。
わずか280円。ああ、幸せだなぁ。

路線変更・『木曜組曲』・夜桜とワイン
  Date: 2000-04-10 (Mon)

日記がわりのお気軽雑記のつもりが、いつのまにか、作品評みたいなのが中心になってしまった。本来そのへんのことは「Gotaku.TXT」に書くはずだったのにね。
で、最近の雑記の長いものを「GOTAKU.TXT」に再掲し、これからはああいった傾向の長いものはあちらに書くことにする。
こちらはもすこし、お気軽路線で。Whats Newにもいちいち書かないことにする。

今日は恩田陸「木曜組曲」を読了。
これもひとつの単純な事件を皆でディスカッションして仮説をたててはつぶし・・・するタイプと聞いて読みはじめたのだが、昨日とりあげた「象と耳鳴り」と同じく、ちょっと上品というかブンガク的すぎて、謎への貪欲さというか、仮説たてちゃあぶっこわすゲーム性を感じさせないのが、僕にはものたりない。やはりこの手のミステリの一番の書き手は西澤保彦だろう。

夜、思いついてぶらぶらと大川端に夜桜を見に行く。
「木曜組曲」に何度も話が出てきたので、ワインを飲みたくなり途中のコンビニでシュワルツカッツのミニボトルと野菜サンドとチーズを買っていく。小説に出てくる食い物ってなんであんなにうまそうなのだろう。
ドイツの黒猫(シュワルツカッツ)は庶民的で好きなワインだけど、どうやらいくつもブランドがあるらしくて(よくわからん。ワイナリーの違い?畑の違い?ボトルつめてる会社の違い?)、今日買ったのは銀河高原ビールのようなブルーのボトルでなかなかおしゃれ。味も、先日飲んだのと違ってピリッとくる酸味がなかったような?ま、僕はワイングルメにゃなれないね。

『ヒカルの碁/6』
  Date: 2000-04-09 (Sun)

でました。第六巻。
この巻は結構これまでの人物関係の整理や状況確認に費やされていて、目覚ましい展開はなかった感じがするのだけれど、あいかわらず丁寧なストーリーテリングと現代的な「少年漫画の王道」をひたむきに歩む姿勢には絶賛するしかありませんな。

「碁」漫画である。(少年ジャンプ/連載中)
普通の少年が碁にめざめ、碁の天才少年をライバルとして、一歩一歩強くなっていく・・・・少年漫画の典型的パターン(スポコン変形ともいえよう)を踏襲した作品であり、しかもその典型のどまんなかをまっすぐ、いささかのからめ手もなく進んでいく物語である。平安時代の天才棋士の幽霊が彼にとりついて・・・という、いかにも現代漫画的な設定もあるのだが、それとてあざとさとは感じさせないほど、重厚にして繊細。リアルで万人が共感できる世界の創造とキャラクター造形。
主人公と「最強の敵」しか描かれないうすっぺらな世界の中で、「根性」だけで敵をやっつけつづけ、「最強」のインフレで自家中毒をおこすような荒っぽいストーリー(いまではそれが少年漫画の王道らしいが)とは無縁である。
ほんのちょいとしか顔を出さない端役さえ感情や背景があることを感じさせる作者の愛情の深さ。しかも彼らを、主人公や作劇に『都合がいいか悪いか』という視点だけで描かないのが、希有にして感動的だ。物語のステップにしかならない場所にさえ歴史を匂わせるほど細やかな世界の作り込み。
極端な悪や裏切りで物語を盛り上げるのではない。あくまで普通人としての常識やマナー、モラルのなかで誠実に自分の目標や自分の限界を見つめ、悩み、成長していく登場人物たち。エキセントリックさでキャラを立てるのではない。ここに出てくる連中は誰も、人を蔑むことで自分を浮き立たせようとは絶対にしない。社会と他人への反発はあっても、常に相応の敬意をもって接している。
それでいて、いかにも優等生的でお説教臭い雰囲気や地味な印象はなく、あくまで現代的にポップに話は進行し、ひとつの勝負の息詰まる感覚は、奇声や筋肉や必殺技を誇示して「命がけの戦い」を繰り広げているアクション漫画などおよびもつかない緊張感と興奮を呼び起こす。

漫画というジャンルははあまりに深く広くなりすぎて、老若男女、誰にでも薦められる作品など滅多にない。僕自身の好みも偏っている。
だが、この漫画は違う。「碁」に興味などあろうがなかろうが関係がない。とにかく、誰にでも「面白いよ!すごいよ!」と自信をもって薦められる、信じられないほどすべてが揃った奇跡的な作品だ。その手柄は、絵コンテまで手がけている原作者ほったゆみに帰するところが大きいだろう。碁に対する知識と愛情という、もともと持っていた武器以外の才能も、恐るべきものがあるといえるだろう。高レベルの作画(小畑健)も素晴らしい。
欠点がなさすぎて、困ってしまうぐらいだ!

もう少年ジャンプの漫画など一生読むことがないだろうと思っていた僕だったが、この漫画を産み出したことだけで、この雑誌があってよかったと今思っている。

美味しい短編集『メインディッシュ』
  Date: 2000-04-09 (Sun)

1999年の本格ミステリは、短編集が美味しい年だったらしい。
創元社の「2000年本格推理ベスト10」がでて(ちゃんと1999年最後にでたものまで範囲に含めるので、他のベスト10と違って数ヶ月遅れてでるのだ)、昨年の作品をチェック。1位が「法月倫太郎の新冒険」なのがその象徴か。
「このミス」ほどじゃないにしろ、僕の知らない傑作がいろいろと出ているようで、不明を恥じつつ、興味のわいた短編集を購入。

恩田陸『象と耳鳴り』(祥伝社/ハードカヴァ−)。ミステリとは思えぬ奇妙な題名。12編の短い作品が詰まった短編集。語り口が異なるが作風と主人公は芯を貫いている。上品でひねりがあり、少し枯れた大人の味わい。ただ洗練されすぎてて、こくが欲しくなるのは贅沢?

で、今日読了したのは北森鴻『メインディッシュ』(集英社/ハードカヴァー)。こちらは題名がストレートに内容を表している、各作品に「料理」をあしらった短編集。短編が続いてひとつの長編になっているタイプ。それも順番に読まねば、全体に仕掛けられた趣向が味わえないから、連作長編というのがふさわしいのかな。この手の趣向やサプライズが前面に出過ぎている本格ミステリの傾向になんとなく不安を覚えている僕だけれども、この本のそれは、「隠し味」である。いや、隠し味というにはかなり重要な要素なのだけれども、そのことで支えられている作品ではない。短編ひとつひとつが、さながら「みけ」さん(この作品の探偵役にして一番謎の多い人物)が作中で作る料理のように、美味しそうな湯気をたてていて、それぞれ独自の味わいを主張しているのだ。
しゃれているけど、スカしてるわけじゃなく、せつなさもあるけど、それに溺れすぎてもいない。大きな事件がおきるわけじゃないけど、推理の過程は起伏に満ちている。
高級レストランの味というより、料理自慢が丹誠込めて作った夕食の味わい。
堪能しました。お薦めです。

そうそう。これは短編集じゃないんだけど、貫井徳郎『プリズム』。仮説の構築と瓦解を繰り返す、僕が待ち望んだタイプの本格ミステリ。1月に読んで、ほくほくしていたら、ベスト10にちゃんと取り上げられていて、満足満足。

グリーンマイル
  Date: 2000-03-26 (Sun)

土曜の夜11時45分。劇場に電話かけたら20分後にオールナイトの「グリーンマイル」がはじまるとのことで、あわてて家を飛び出す。徒歩で映画館に行ける特権をたまには行使しなければね。

スティーブンキング原作の「感動作」として名高い「スタンドバイミー」も「ショーシャンクの空に」も劇場で観ているのだけれど、実はそれほど感銘を受けたわけではない。そんなわけで「グリーンマイル」もそれほど期待したわけではなかった。
3時間の長い作品。しかも奇跡の感動超大作とか言われるとなんとなくひいてしまうのだが、これは面白い。寓話としての雰囲気と節度を守っており、死刑囚監獄と看守の物語・・・という言葉から受ける陰惨さやドロドロした感じからはほど遠い。善良な人々と、憎むべき悪役がはっきりしている。物語のほとんどは、一本の廊下をはさんだ狭い死刑囚監獄棟で進行する。
これはファンタジーである。しかも、よくできたファンタジーだ。
3時間の物語はむしろ淡々と進行し、にもかかわらず各エピソードの充実度はエンタテインメントとして申し分がない。役者ひとりひとりに、感情移入せずにはいられない。
大長編!大感動!アカデミー賞最有力候補!とがなりたてるタイプの作品ではない。むしろ「愛すべき小品」という肌ざわりである。

重要な『登場人物』としてハツカネズミの「ミスタージングルス」がいる。
これがかわいいのである。
ねづみ関連WEBページである当サイトとしては、このねづみを観るだけのためにでも、この映画は価値があると太鼓判を押しておこう。
途中でどきっとする場面があるけどね。

ウルトラマンティガ/劇場版
  Date: 2000-03-21 (Tue)

三連休の最後、劇場版ウルトラマンティガを観る。
TVでそれなりに感動的に決着がついた話であるが、最終回をだめ押しでもう一度やってみせたという雰囲気か。
まじめに、それなりに感動的に、ファンへのサービスたっぷりに作られている。平成ウルトラマンシリーズでさんざんやった光と闇の戦いというテーマを、敵を悪のウルトラマンという設定にして、ストレートに繰り返した感じである。
なのに、僕には「ウルトラマンシリーズの総決算を観た」という印象がどうもあまり残らなかった。何か違うものを観たような違和感。これはなんだろう。

初代ウルトラマンにおいて、最も華がありキャラクターとして立っているのは、実はヒーローではなく怪獣であった。
怪獣映画の王道は、怪獣というとてつもない存在がそれぞれ特徴ある性質で日常世界を襲い、そのキャラクターが引き起こす非日常的な困った状況(素早くて攻撃できない、単にでかいので歩くだけで町が破壊される、放射能汚染があるので近寄れない・・・etc.の「シチュエイション」)にいかに対処し、人命を救い、作戦を練り、怪獣を倒すかを描くものだと僕は思う。「人間(キャラクター)」を描くより「シチュエイション」を描くことを優先させた、ある意味奇形な・・だが、だからこそ特別な魅力を持つ映像が怪獣映画ではなかったか。初代マンは、その怪獣映画の王道に、ヒーローという要素をスパイスとして加えてみた・・・という構造だったのではなかろうか。
怪獣が「何怪獣」で毎回どんな状況を引き起こすか?が初代ウルトラマンのプロットを支えていたといっていい。だから、怪獣一頭一頭が強烈に個性を発揮し印象に残った。ティガの怪獣に個性がないわけではないが、事件の主体というよりも、トリガーにすぎない印象を受けることが多かったのもまた事実である。
初代マンで怪獣に対する科学特捜隊のメンバーは、それぞれ魅力的ではあったけれど、個人的な苦悩や生活や家族関係などは意識してカットされ、特にハヤタの無個性さは際だっていた。ウルトラマンも不気味な謎の存在として描かれ、その姿になったときにハヤタの声がかぶるようなことは一度もなかった。人類代表としての彼らは、あえてリアルさよりも、わかりやすさを優先させて描かれている。そう、怪獣が生み出すシチュエイションこそがこの映像の主役なのだから。
怪獣対人類の戦いという怪獣もの本来の図式の中に、問答無用で決着をつける一種の水戸黄門の印籠として、ウルトラマンという「異物」を投げ込む・・・。この、ある意味安直といってもいい、力ワザでカタルシスを生む装置として、当初ウルトラマンは存在していたのではないだろうか。そしてその位置にいることによって、「ウルトラマン」は「怪獣映画」でありえた。

だが、ヒーローとしてのウルトラマンは、単なる装置やスパイスであるには魅力的でありすぎた。
ヒーロー自身の戦い、思考、苦悩、を通じて事件を描いていきたいという誘惑は、早くも次作ウルトラセブンでスタッフをとらえることになる。感情をもったヒーローという視点を中心にすえることにより「人間を描く」ことを選んだウルトラセブンは、ドラマとしての評価は得やすくなったが、「怪獣もの」としての王道からは、はずれていくことになる。もちろん、それはそれで正しい選択だったのだろう。セブンはまぎれもなく、一級の作品であった。
だが、怪獣を通してのシチュエーションドラマを描くのか、ヒーローの目を通して人間ドラマを描くのか、という命題にきちんと向き合わないまま、両者をふらふらとさまよいながら作られたその後のウルトラシリーズは、マンにもセブンにもとうてい及ばぬ質のものしか作れなくなっていく。
幼いころにウルトラで育まれた新世代が、本当に怪獣映画に向き合った平成版「ガメラ」を誕生させ、それを起爆剤に「ウルトラマンティガ」が生み出されるまでは。
ウルトラマンティガは、作劇上、明らかにセブンの道を継いでいる。オタク世代は「キャラ萌え」世代だ。キャラクターの魅力で物語をひっぱっていくことこそすべて。キャラを立てるためなら、プロットを犠牲にすることを辞さないという方法論さえ肯定する(これは、昨日感想を書いた「ケイゾク」に顕著だ)。
いや、ティガがそういう作品だというつもりはない。むしろ、キャラを立てつつも、他の要素をないがしろにしない丁寧さが、ティガを名作ならしめた。だが、シチュエイションを描くという側面は、キャラクターを描く力に埋没していった印象を否めない。
余談だが「エヴァンゲリオン」はキャラ立て物語でありながら、『エヴァvs使徒=ウルトラマンvs怪獣』の部分においては、明らかにセブンではなくマンへ回帰している。いささかパロディめいたけたたましさではあるけれど、出てくる使徒たちの形態や攻撃方法は、深い意味でバラエィに富んでおり、その特質ゆえに生まれた状況(シチュエイション)がドラマを生んでいた。そしてネルフの作戦もそれにあわせてまたバラエティとドラマに富んでいく。主要人物のミサトが作戦参謀であるのは、偶然ではない。

閑話休題。
ティガがキャラクターを描く道を選んだ以上、平成ウルトラシリーズの総決算を目指した今回の映画が「怪獣不在」であるのは当然の帰結だったのだろうか。
今回の映画には、怪獣の都市破壊などない。それどころか、日常を蹂躙する巨大な力というビジュアルさえ、ほとんどないのである。
海洋上にある古代都市の遺跡の無人島というリングを設定し、そこに結界まで張って、闇の力と言葉だけで喧伝される悪のウルトラマン3体、そしてガッツ隊員と、ウルトラマンティガだけを放り込み、その限定された特殊空間ですべてのドラマを終始させてしまうのだ。
そして観念的な光と闇という言葉によってのみ、登場人物たちに闘う動機付けを与える(光と闇というのは、要するに正義と悪というレッテルを言い直した言葉にすぎない)。そして、正義が破れそうになると愛と涙と勇気が奇蹟を起こし、突然ヒーローは強くなり、悪を必殺技一発で吹き飛ばす。
これは少年ジャンプがお得意だった、あのご都合主義バトルワールドそのものではないか。
総決算にして、ウルトラマンはキン肉マンに成り下がってしまったのだ。
セブンを継いだ道はキン肉マンに続く道ではなかったはずだ。キャラクターを描くこと自体は間違っていたわけではなくても、それに溺れすぎ、道を見失い、通俗と媚びの道に迷い込んでしまったのではないか?
こんなキャラクターの描かれ方は、ウルトラマンには似合わないのではないか。
違和感の正体は、これだったのだ。この映画の魂はいつの間にか、ウルトラマンではなく、ウルトラマンの出てくるキン肉マン(ドラゴンボールでも、聖闘士星矢でもいい)になっていたのだ。
平成のウルトラマンはそう変わったのだ。それはそれでいいじゃないか・・・という考えもあろう。
もちろん、そうかもしれない。でも、ならばウルトラマンがウルトラマンである必要はもはやないじゃないか。

「ガメラ3」がダメだったのは、やはりあれが「ガメラ」の物語でありすぎたからではないか?1がギャオス対人類の、2がレギオン対人類の物語であったのに、やがてガメラをヒーローとして描きたくなり過ぎたのではないだろうか。その思いが「見慣れた日常世界が一匹の怪獣の到来で劇的に変わるシチュエイションドラマ」として「ずっとこんな怪獣映画が観たかった」と絶賛されたガメラを、いつの間にか「少年ジャンプバトルワールド」にしてはいなかったか。
ガメラには(初代)ウルトラマンのように、ドラマを引き締めるスパイスとして、カタルシスを生む装置としてのわきまえが必要だったように僕には思える。賛成してくれる人は少なそうだけど。

ケイゾク/映画
  Date: 2000-03-20 (Mon)

テレビドラマは観ないのだが、ケイゾクは、新聞かなにかの紹介を見て気になってずっと観ていた。本来映像には向いてないといわれる本格推理風の設定を、現代的な映像感覚でうまく処理しており、特に探偵役のキャラ造形が本格ファン納得の出来栄え。ただ、本格推理オタクの作品というよりも、『本格のスタイルをちょいとぱくってみました〜トリックも有名作品からじゃんじゃんぱくっちゃうもんね〜それの何が悪いの〜』というノリで作られていることも感じ、エヴァンゲリオンなどからの影響も同様のノリで取り入れていて、なるほどねぇと感心はするが、感動はなかった。
僕はパクリは悪いと思ってないが、パクるのなら、もとネタを越える何かを創造し付加しなければ・・・と考える。それがパクる相手への敬意だろうと思う。
ケイゾクは、そのへんのこだわりをするりと無視して、無自覚に(あるいはそう見せかけて)、気軽に寄せ集めて、客にそのまま提示してみせる。
まあ、そういうやり方が失敗して失笑を買う例がこれまで多かったわけだが、オタク世代であろうスタッフたちは、そこらのパクリのセンスも絶妙だから、それなりに美味しく作っちゃうんですね。
料理にたとえれば、冷凍食品や偽素材をたっぷり使い、『あざとさ』調味料をごちゃまんとかけたファーストフード。
でも、シェフは、「ま、それなりの美味しさに仕上げたし、文句ないでしょ」とにやりと笑うしたたかさを持っているのだ。

そんな訳で、ケイゾクは、それなりに面白くは観ていたし、マイナーな間は「本格ミステリ風味を、現代的映像で成立させた」という点で応援していたのだけれど、いつの間にかメディアミックスで変に盛り上がり、続々と関連書籍やらなんやらが出て『ケイゾク最高』という風潮になると、「おいおい。そこまで手放しで誉めあげるほど、立派なドラマじゃないだろうに。」と思わざるを得なかった。
映画化されても観に行く気はかなり失せたのではあるが、他の映画が立ち見だったので、ちょうど始まろうとしていたこの映画にとびこむことになる。
キャラの立て方はあいかわらずうまい。
前半の孤島に集まった人々がひとりひとり死ぬ・・・というお約束のパターンも面白い。ひとつひとつなにかが消えるという趣向の後に、窓から見えていた島が消えてしまったときには「おお!?EQの家屋消失ネタに挑戦するのか!?」とワクワクしてしまった。
うかつだった。トリックをまるまるパクっていたのだ。
ミステリのトリックをパクるのは罪ではない。だが、パクリ方にはルール・・・いやマナーはあると思う。金田一少年といい、ケイゾクといい、そういうものをテンから無視していて、これはあんまりひどすぎるんじゃないだろうか。
ミステリへの敬意のなさは、犯人が何故こんなトリックを使い、なんのために連続殺人を行ったのか、結局全然説明しようとしないということでも証明されている。
制作者たちはそんなもんには興味はないのである。とにかく、キャラたちは、トリックを使って連続殺人を犯せばよいのだし、それに理由をつけんのは、面倒だからいやだ・・・・それですんでしまうのだ。
後半、これまでの話とまったくつながってない、妙な幻想世界へ、主人公たちは迷いこむ。そこで、なんだかよく判らない会話をしては、相手を拳銃でばんばん撃ちあう。なにか意味ありげに見えるが、たぶんこれってエヴァンゲリオンのラストや「ビューティフルドリーマー」や「コンタクト」や「2001年宇宙の旅」みたいなことをなんとなく「やってみたかったからやった」だけのものだと思われる。
あれに意味を見つけようとする観客に「ばーか」と舌を出してるのではないかな。

・・・とかなりぼろくそに言ってるみたいに見えるけれど、実は結構楽しめたのも事実である。気持ちよくはないが、化学調味料たっぷりの料理は、ジャンクフードに慣れた僕の舌にはあっているのかもしれない。
このシェフは、化学調味料をつかわせたら右に出るものがいないのだ。

おいしいコロッケ
  Date: 2000-01-30 (Sun)

一昨日、僕の住んでいる天神橋筋商店街でヤクザの組長が射殺された。目と鼻の先のパチンコ屋である。会社にいってる間のできごとだったので、昨日の新聞で知ってびっくり。
南森町の銀行までお金をおろしにいくついでになんとなく注意してたんだけど、もはや前日の気配はまったくない。何事もなかったかのように、いつもののんびりした商店街の風景がひろがっている。パチンコ屋もいつも通りやっているようだ。
大阪の中心の商店街にはいろいろ事件がおこる。それなりに対処する術はあるということなのだなぁ。

南森町までいくと、必ず買ってしまうのが中村屋のコロッケだ。
なにしろ有名な店なので、ひっきりなしに人が列を作っているが、店を大きくして全国展開をしよーとか全然考えてなくて、狭い間口で、ひたすらコロッケを揚げ、販売している。見た目はどこの商店街にでもありそうなしょぼい店なのだ。
商店街をもどりながら、さっそくかぶりつく。行儀よくないが、うまいコロッケはできたてをそのまま食うに限る。ソースをかけるなど、まずいコロッケを我慢して食うための技にすぎない。
さっくりした衣の中から、ねっとりとしたつぶしたジャガイモが出てくる。
思わず酒屋でビールの缶を買って一口。そして再びコロッケを一口。
「く〜〜〜うまい!(>_<)」
一個60円のコロッケでこの至福。
有名になり、たとえ値段を高くしても売り上げ数は落ちないだろうに、この価格で、カッコつけずにコロッケを売りつづける心意気。大阪に住む幸せである。

発泡酒「ブロイ」の宣伝で石田ひかりが「この店のコロッケが世界一だと思っている」なんて言っているが、もちろん勘違いである。
だって、あれは中村屋のコロッケじゃないもん。

本格の潮流はこういう方向なのかなぁ 『ハサミ男』
  Date: 2000-01-05 (Wed)

2000年が明けて最初に読み終えたのがこの本(講談社ノベルス)
こないだの「このミステリがすごい!」でベスト10入りした、新人のデビュー作。
ハサミ男と呼ばれるシリアルキラーが主人公。サイコサスペンス風だが、内容も語り口もサプライズも、「本格もの」といっていいだろう。
いかにものエキセントリックさがないサイコキラーも、捜査側の刑事たちも非常に魅力的に描かれていて、残虐描写やしつこい精神分析に辟易させられることもない。好感をもてる作風なんだけど・・・この作品のメインになるであろう「サプライズ」が20ページぐらい読んだ段階で判ってしまい、あまり正当に評価できない。
それが判っちゃったのも、最近の「サプライズが仕掛けられてなきゃ本格モノにあらず」みたいな風潮のせいである。新人の作品だとついうがった見方をしてしまうのだ。僕は本格ミステリには気持ちよく騙されたい人間なので、あえて作者の手の内を覗きこむようなことはしないのが普通なのだけれど。
それにしてもこの手の「サプライズのため」の小説、イコール本格ものみたいな風潮はいつまで続くのかなぁ・・・・。
僕が本格ものに望むサプライズとは、探偵が見ている風景と読者が見ている風景が同じで、しかもそこから導きだされる推論や結論が、読者が思ってもいなかった方向にとんでいく・・・というものなのだ。そして、そのサプライズに至る推論の「過程」こそが面白さの眼目なのだ。
しかるに綾辻以降の本格は、登場人物の見ている世界と読者が見ている世界を作者が故意に歪めて見せ、その歪めた世界を最後に読者にいきなり明かすことでサプライズを成立させている。奇想を提出し、それを「解く」過程を見せもせずに、とりあえずその奇想が成立する「解決」を突きつける本格もの。
綾辻も島田荘司も京極夏彦も皆このタイプだ。
とびきりの謎があって、それにとりあえずの合理的解決がつきゃ本格だろうといわんばかりの作風。「ハサミ男」でも、もっとも魅力的になるべきはずの謎が、「ものすごい偶然だった」ですまされちゃう、この傾向。
それはそれでいい。
それはそれで面白い。
だが、そんな本格ばかりがメインストリームになるのはいやだ。
本格とはこういうものだと、若い読者に思われるのはたまらない。

「このミステリがすごい!2000」
  Date: 1999-12-20 (Mon)

今年もこの雑誌(?)が出る季節になった。
で、眺めてみてショックだったのは、ベスト10に入った作品を一冊も読んでいなかったということだ!
もちろんこんなもんに振り回される必要などないといわれりゃその通りなんだけど、美味しいものをかぎあてる鼻がどんどん弱くなってんじゃないかという不安を感じるのもまた事実である。
充実した作品!と膝を打った「法月倫太郎の新冒険」がかろうじて11位に入っているのが慰めか。

「ハサミ男」は読もうと思って探していたし、「盤上の敵」は、このWEBでも話題にしていたから、いずれ読んでいただろう。でもこの夏、東野圭吾を読みまくっていたときに出た「白夜行」をなぜ読まなかったのか?その後も評判は聞いてたのになぁ。「バトルロワイヤル」も、出版までのいきさつを「QuickJapan」であらかじめ読んでいて、ずーっと気にしてたのに・・・。最近、はずれをひくのがイヤで、妙に保守的になってないか?
やはり歳だ。歳なのだっ。

今年読んで一番気に入ってしまったのは実は「私が彼を殺した」(東野圭吾・講談社ノベルス)である。これを読んで以前出た同趣向の「どちらかが彼女を殺した」におそまきながらはまり、東野の面白さに改めて気づき、「秘密」を読んで泣き・・・という夏だったのである。
でもこう言うと「おまえがミステリ読むのは、しょせん推理パズルを求めてなんだな」って言われそうだよなぁ・・・・。
そうですよ!そーですとも。

テロリストをぶっ殺せ!
  Date: 1999-12-09 (Thu)

ぶっそうな題名だけど、思想的になんの意味もないので安心していただきたい。
『レインボーシックス』の話である。

本格ミステリの話ばかりしてるけど、一応ミステリ全般は目を通してきたつもりである。限りなく薄いが。
でも、まったくといっていいほど手を出さなかったのがエスピオナージュとか「国際謀略小説」とかだ。そんな僕がトム・クランシーの新作「レインボーシックス」(新潮文庫)などなぜ読みはじめたのか?
同名のゲームにはまったからだ。トム・クランシー自身がかかわっているといわれる、特殊部隊シミュレーションゲームの原作(というか、どうやら同時製作じゃなかろーか?)なのだ。

パソコンゲーム原理主義者といわれる僕であるが、実はウォーシミュレーションは不得意だ。兵器だの銃だのに全然興味がないのである。
だがしかし。
人質をとったテロリスト鎮圧のために極秘に結成され、各国政府の要請で世界中に出動する多国籍特殊部隊「レインボー」。
これだ。こーゆー漫画みたいな設定が、ちょ〜リアルな裏づけとディテールで描かれて、わくわくしない男がいるだろうか?いや、いない(断定)

大使館や美術館、ジャンボジェット、船、コソボ市街など恐ろしいほどリアルな3Dの舞台に、2、3チームのレインボー隊員の突入ルートをプランニングする。どこで立ち止まり、どこで扉を爆破し、どこで手榴弾や閃光弾を放り込むのかをあらかじめ、設定しておくのだ。で、ミッションが始まると、そのひとりの視点になって、実際に銃を撃つこともできるし、高みの見物で、設定どおりに動き、闘う彼らを見ているだけというのも可能だ。
テロリストだって動いているし考えているから、こっちの作戦はすぐにはうまくいかない。ばたばたと隊員が倒れていく。奴らすぐに人質殺すし。
「テロリスト許すまじ」。作戦を練り直す。
そして、無傷でミッションを成功させるまで、死んでも死んでもレインボー隊員は突入していくのだ。

とにかく、よく出来ていて、現場の息づかいまで聞こえそうな臨場感である。こんなゲームはコンシューマじゃできない。見た目に似たものはできるだろうが、思想の根本が違うのである。お子様ランチじゃないのだ。

ミッションがあまりうまくいかなくてリセットする前に、のこのこと後をついてくる救助した人質の間抜けな面に銃弾をお見舞いするのもなかなか笑える遊びである。(←外道)

「ローウェル城」に脱力
  Date: 1999-11-28 (Sun)

昨日小森健太朗「ローウェル城の密室」を読了。
解決直前まで、小森の他の作品「コミケ殺人事件」を読もうと書店を探していたのだが、読み終わって、買う気をなくした。
ねづBBSに書いた以下の理由
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ローウェル城って、ファンタジー系少女漫画の世界に放り込まれた男女がその中の登場人物として完全密室殺人にまきこまれる・・・という、西澤作品タイプの本格推理小説だとわくわくして読んでいたのですが、ラストに来て怒髪天をついてしまいました。こんなものはクズです。
新本格が叙述トリックやメタミステリこそ新しい時代のメインストリームであるかのように進んでいくのをなんとなくいや〜んな感じで見ていたのですけれど、こんなモノが「メタ」で、こんなふうにしか本格の生き残る道がないのだとしたら、本格なぞ滅びてしまえ!と、熱くなった頭で考えてしまいました。
これは肌があうとかあわないとかの問題とは次元が違います。
西澤作品がどんなにとんでもないSF的な設定ではじまっても、最後に理性と納得の地に着地するのに、ローウェル城はそれまで語られてきたなにもかもを反故にしてしまう、単なる「オチ」に着地してしまう。30ページのショートコントならいざしらず。
こんなオタクの自家中毒が、本格ミステリの新たな地平だというなら、既に僕は本格ミステリファンではないのかもしれません。
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何が本格ミステリの魅力であるか、については近年、実作において大きく変わってきたような気がするが、こういう行き方が新たなメインストリームだというのなら、ついていくつもりはない。

タイ料理→『シックスセンス』
  Date: 1999-11-21 (Sun)

会社の人間三人でアメ村近くタイ料理屋にいく。東京でタイ風ラーメンの店で味を知り、タイ料理に興味津々となってしまったのだ。ココナッツミルクの甘い香りと香辛料の強烈な辛み。いわゆるエスニック料理には独特のクセがありそうな気がしていたのだが(もちろんこれまでにないクセはあるのだが)、ずっとすっきりとうまさだけが伝わってくる感じで、すっかり気に入った。偏見でいいものを見逃してはいけませんね。
さて、その後結構評判のいい「シックスセンス」を観に行く。
映画のはじめに「この映画には”ある秘密”があって、それを誰にもいわないで・・・」という注意がでてくる。
映画を観ていると、あちこちなにか「引っかかる」違和感があって、途中それらを頭の中で転がしていてハタと気がついた。なるほど!
このサプライズは、綾辻以降の新本格の洗礼を受けた日本のミステリ読者にはおなじみの匂いがするものだと思う。伏線も(僕が思い出せる範囲で)非常にフェアなものだった。フェアすぎて、僕が気がついてしまったぐらいだ(爆)。もう一度観て確かめたくなるのもむべなるかな。
単なるサプライズのためのサプライズではなく、ラストの感動に結びついているところが、この映画を上質のものにしているのだろう。

女囮捜査官5で完結
  Date: 1999-11-21 (Sun)

「五感推理」だから、5巻「味覚」でシリーズに幕である。
なんとまあ、それまで着々と積み上げてきた世界を最後にどかーんとひっくり返して、カオスの世界にしちゃう展開。思わずそりゃないぜ〜と言ってしまった。それが山田正紀的なのかもしれないけど。いや、今回も魅力的な謎(人間消失、衆人環境の完全密室殺人、顔のない死体・・・)が出てくるが、逆にそれらが「軽く」見えてしまうのが、もったいないというべきなのか、もったいぶらないというべきなのか。巨大な話の流れにちまちました謎への興味なんて飲み込まれてしまう感じなのだ。
各巻の解説をしている新本格の作家たち(←マニア)が押し並べて「扇情的で俗っぽい題名と装丁にひっかかって、当初このシリーズの評価を不当に低く見ていたことの反省と、SF作家の余技ではないミステリ作家としての山田正紀をもっと正当に評価すべきだという主張」を述べている。
それはそうなんだけど、でっかい謎を構成し、それを力業で解体して決着をつける・・・それがメインストリームになるのは「謎の解かれていく過程」に美しさを見いだす僕にとってはちょいつらいところ。
でも世の流れは京極夏彦があれほど指示を受けるのを見ると、僕の好みとは違う方向にいってる気がしますねー。
超能力やSF的トンデモ設定をメインに据えてても、やがて論理の世界に収束していく西澤保彦の作品はマイナーを脱することができないし。とほほ。

女囮捜査官2〜4
  Date: 1999-11-20 (Sat)

2日間の出張中、合間を見て一気読み。新幹線では寝ていたから、いかに集中して読んだかを示している。まあ、改行多くてページが進むというのもあるのだが。
1冊めの「触覚」からはじまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚と続く「五感シリーズ」として最初から5冊ワンセットになっている連作の真ん中3冊である。
サイコキラーを扱いつつ、本格推理のエッセンスを混ぜこんで行く手法を手をかえ品をかえ提供していて、山田正紀の力業はすごーい。
でも、せっかくのトリックを生かす「こく」というか「ねちっこさ」が足りない感じがする。
山田正紀の非ミステリ系でも感じる、妙にあっさり投げ出すような結末が物足りなさを感じさせちゃうのだ。まあ、そこが潔さなんだといわれればそうなのかもしれないけど「聴覚」なんかあれだけの不可思議状況作り出したんだから、いきなり犯人の告白で真相をばらしちゃうんじゃなくて、もっと主人公の解明への過程を描けば、それが本格ミステリとしてのカタルシスになると思うのだが。

『女囮捜査官』
  Date: 1999-11-15 (Mon)

「女囮捜査官(1)触覚」(幻冬舎文庫)を読了。
ここのところ、「小説読まない期」に入ってたのだが、社員旅行のおともに買った。
その扇情的な題名に「山田正紀もなんか俗なの書くよーになっちゃったなー」と偏見をもってたのだが、どうも「見かけによらない」シリーズだという話を散見していて、読むことにしたのである。
山田正紀はミステリじゃない作品もつい買ってしまう、希有な作家だったんだけど(つまり性にあうということか)、ここのところ本格ミステリを続けざまに発表していて、なんとなく嬉しい。ただ「神曲法廷」があまり趣味にあわなかったので、最近作は読んでなかったのだが・・・。
でも、やはり山田正紀は読ませる。女囮捜査官は5部作なので、しばらくは楽しめるだろう。
このシリーズ、昔読んだ夢枕獏のように改行がやたら多くて、あっという間に読めてしまう。そのぶん軽い感じ。やはりそれなりに「俗受け」を狙ってはいるんだろうなぁ。それでも、やはり山田正紀は山田正紀なのだ。

海老の断末魔
  Date: 1999-11-11 (Thu)

大阪に取材に来られたライター&編集者を見送りがてら、新大阪駅で夕食。
美々卯の「うどんすき」をはじめて食べる。
美々卯は、「うどんすき」を発明しその登録商標も持ってる老舗で、大阪人なら大抵知っている。
さて、このうどんすきの「メインイベント」が、活きた車海老を小さな火ばさみみたいなのでしっかりつかんで、鍋の中でそのまま茹でちゃうという儀式だ。
海老だっていきなり沸騰した出汁につっこまれて、おとなしくなどしていない。暴れる。自分に何が行われてるか(←茹でられ、食われる)など自覚していないだろうが、熱ければ暴れるのは生き物の本能。
「しっかりつかんでないと、飛び出ますよ」と仲居さんが注意をするのだが、心優しい女性などは、うっかり持つ手をゆるめて、びちびちと出汁をまきちらしながらテーブルをはねまわる海老を、指を焼きながらつかまえねばならない羽目になったりするらしい。
それらの話をさんざん聞かされていたので、ミニ火挟みで力任せにがっと海老をつかむと、ぐらぐらと煮えた出汁におもむろにつっこんだ。火挟みを伝わる海老の断末魔の悶え。びちびちびちびち・・びちび・・び・・・・やがてそれがやみ、鮮やかな朱色に染まった「茹で海老」が出汁の上に浮かぶのだった。
死にたての海老は旨かった。

くわた久々の新刊
  Date: 1999-11-07 (Sun)

先日霊感を得て(?)久々に桑田屋本舗(桑田乃梨子ファンサイト)を覗いたら「男の華園」三巻が近々出るという。1年一冊でると御の字の単行本だ。
んで、今朝、メールがとどく。桑田屋本舗においてもらってる「くわたアイコン」の感想メール。で、再びサイト覗くと、既に昨日発売とある。しまった。最近花ゆめコミックスはこんな時期にでるのか。
で、あわてて近所の本屋にいったが、ないのである。いや、いくらマイナーだからって、漫画専門書店にないってのはどーゆーことか(`O´)
売り切れたのだといいほうに解釈して、京橋まで出かけて買ってくる。その本屋でも一冊しかなかったぞ。
カバー折り返しを観ると、代表作のことごとくは絶版になったらしく、載っていない。「おそろしくて言えない」も「卓球戦隊ぴんぽん5」も「きみの瞳に三日月」も。つまらん漫画は山ほど積んであるのに、なぜくわたの良さがわからんのだ。がんばれくわた漫画。
(ちなみにねづBBSに使われている黒猫が、くわたアイコンのひとつ)

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