映画■『ウルトラマンティガ』にみる、ウルトラマンの変貌(4/9-23:37:04)

2000.3.21「ごたく雑記」より転載

三連休の最後、劇場版ウルトラマンティガを観る。
TVでそれなりに感動的に決着がついた話であるが、最終回をだめ押しでもう一度やってみせたという雰囲気か。
まじめに、それなりに感動的に、ファンへのサービスたっぷりに作られている。平成ウルトラマンシリーズでさんざんやった光と闇の戦いというテーマを、敵を悪のウルトラマンという設定にして、ストレートに繰り返した感じである。
なのに、僕には「ウルトラマンシリーズの総決算を観た」という印象がどうもあまり残らなかった。何か違うものを観たような違和感。これはなんだろう。

初代ウルトラマンにおいて、最も華がありキャラクターとして立っているのは、実はヒーローではなく怪獣であった。
怪獣映画の王道は、怪獣というとてつもない存在がそれぞれ特徴ある性質で日常世界を襲い、そのキャラクターが引き起こす非日常的な困った状況(素早くて攻撃できない、単にでかいので歩くだけで町が破壊される、放射能汚染があるので近寄れない・・・etc.の「シチュエイション」)にいかに対処し、人命を救い、作戦を練り、怪獣を倒すかを描くものだと僕は思う。「人間(キャラクター)」を描くより「シチュエイション」を描くことを優先させた、ある意味奇形な・・だが、だからこそ特別な魅力を持つ映像が怪獣映画ではなかったか。初代マンは、その怪獣映画の王道に、ヒーローという要素をスパイスとして加えてみた・・・という構造だったのではなかろうか。
怪獣が「何怪獣」で毎回どんな状況を引き起こすか?が初代ウルトラマンのプロットを支えていたといっていい。だから、怪獣一頭一頭が強烈に個性を発揮し印象に残った。ティガの怪獣に個性がないわけではないが、事件の主体というよりも、トリガーにすぎない印象を受けることが多かったのもまた事実である。
初代マンで怪獣に対する科学特捜隊のメンバーは、それぞれ魅力的ではあったけれど、個人的な苦悩や生活や家族関係などは意識してカットされ、特にハヤタの無個性さは際だっていた。ウルトラマンも不気味な謎の存在として描かれ、その姿になったときにハヤタの声がかぶるようなことは一度もなかった。人類代表としての彼らは、あえてリアルさよりも、わかりやすさを優先させて描かれている。そう、怪獣が生み出すシチュエイションこそがこの映像の主役なのだから。
怪獣対人類の戦いという怪獣もの本来の図式の中に、問答無用で決着をつける一種の水戸黄門の印籠として、ウルトラマンという「異物」を投げ込む・・・。この、ある意味安直といってもいい、力ワザでカタルシスを生む装置として、当初ウルトラマンは存在していたのではないだろうか。そしてその位置にいることによって、「ウルトラマン」は「怪獣映画」でありえた。

だが、ヒーローとしてのウルトラマンは、単なる装置やスパイスであるには魅力的でありすぎた。
ヒーロー自身の戦い、思考、苦悩、を通じて事件を描いていきたいという誘惑は、早くも次作ウルトラセブンでスタッフをとらえることになる。感情をもったヒーローという視点を中心にすえることにより「人間を描く」ことを選んだウルトラセブンは、ドラマとしての評価は得やすくなったが、「怪獣もの」としての王道からは、はずれていくことになる。もちろん、それはそれで正しい選択だったのだろう。セブンはまぎれもなく、一級の作品であった。
だが、怪獣を通してのシチュエーションドラマを描くのか、ヒーローの目を通して人間ドラマを描くのか、という命題にきちんと向き合わないまま、両者をふらふらとさまよいながら作られたその後のウルトラシリーズは、マンにもセブンにもとうてい及ばぬ質のものしか作れなくなっていく。
幼いころにウルトラで育まれた新世代が、本当に怪獣映画に向き合った平成版「ガメラ」を誕生させ、それを起爆剤に「ウルトラマンティガ」が生み出されるまでは。
ウルトラマンティガは、作劇上、明らかにセブンの道を継いでいる。オタク世代は「キャラ萌え」世代だ。キャラクターの魅力で物語をひっぱっていくことこそすべて。キャラを立てるためなら、プロットを犠牲にすることを辞さないという方法論さえ肯定する(これは、昨日感想を書いた「ケイゾク」に顕著だ)。
いや、ティガがそういう作品だというつもりはない。むしろ、キャラを立てつつも、他の要素をないがしろにしない丁寧さが、ティガを名作ならしめた。だが、シチュエイションを描くという側面は、キャラクターを描く力に埋没していった印象を否めない。
余談だが「エヴァンゲリオン」はキャラ立て物語でありながら、『エヴァvs使徒=ウルトラマンvs怪獣』の部分においては、明らかにセブンではなくマンへ回帰している。いささかパロディめいたけたたましさではあるけれど、出てくる使徒たちの形態や攻撃方法は、深い意味でバラエィに富んでおり、その特質ゆえに生まれた状況(シチュエイション)がドラマを生んでいた。そしてネルフの作戦もそれにあわせてまたバラエティとドラマに富んでいく。主要人物のミサトが作戦参謀であるのは、偶然ではない。

閑話休題。
ティガがキャラクターを描く道を選んだ以上、平成ウルトラシリーズの総決算を目指した今回の映画が「怪獣不在」であるのは当然の帰結だったのだろうか。
今回の映画には、怪獣の都市破壊などない。それどころか、日常を蹂躙する巨大な力というビジュアルさえ、ほとんどないのである。
海洋上にある古代都市の遺跡の無人島というリングを設定し、そこに結界まで張って、闇の力と言葉だけで喧伝される悪のウルトラマン3体、そしてガッツ隊員と、ウルトラマンティガだけを放り込み、その限定された特殊空間ですべてのドラマを終始させてしまうのだ。
そして観念的な光と闇という言葉によってのみ、登場人物たちに闘う動機付けを与える(光と闇というのは、要するに正義と悪というレッテルを言い直した言葉にすぎない)。そして、正義が破れそうになると愛と涙と勇気が奇蹟を起こし、突然ヒーローは強くなり、悪を必殺技一発で吹き飛ばす。
これは少年ジャンプがお得意だった、あのご都合主義バトルワールドそのものではないか。
総決算にして、ウルトラマンはキン肉マンに成り下がってしまったのだ。
セブンを継いだ道はキン肉マンに続く道ではなかったはずだ。キャラクターを描くこと自体は間違っていたわけではなくても、それに溺れすぎ、道を見失い、通俗と媚びの道に迷い込んでしまったのではないか?
こんなキャラクターの描かれ方は、ウルトラマンには似合わないのではないか。
違和感の正体は、これだったのだ。この映画の魂はいつの間にか、ウルトラマンではなく、ウルトラマンの出てくるキン肉マン(ドラゴンボールでも、聖闘士星矢でもいい)になっていたのだ。
平成のウルトラマンはそう変わったのだ。それはそれでいいじゃないか・・・という考えもあろう。
もちろん、そうかもしれない。でも、ならばウルトラマンがウルトラマンである必要はもはやないじゃないか。

「ガメラ3」がダメだったのは、やはりあれが「ガメラ」の物語でありすぎたからではないか?1がギャオス対人類の、2がレギオン対人類の物語であったのに、やがてガメラをヒーローとして描きたくなり過ぎたのではないだろうか。その思いが「見慣れた日常世界が一匹の怪獣の到来で劇的に変わるシチュエイションドラマ」として「ずっとこんな怪獣映画が観たかった」と絶賛されたガメラを、いつの間にか「少年ジャンプバトルワールド」にしてはいなかったか。
ガメラには(初代)ウルトラマンのように、ドラマを引き締めるスパイスとして、カタルシスを生む装置としてのわきまえが必要だったように僕には思える。賛成してくれる人は少なそうだけど。